1980年、バルタスロール・カントリークラブを
舞台とした全米オープンの最終日、
ジャック・ニクラウスと青木功が歴史に残る
死闘を繰り広げた時には、
手に汗を握ってブラウン管にかじりついていた。
高校2年生の時だった。
大学を出て○○○○に入社した年は
自宅通勤だったが、翌年からは
アパート住まいを余儀なくされた。
安月給の若輩者にとって、
月々の家賃は相当こたえた。
7万2千円の電話加入権を買うことが
できず、電話の取り次ぎをしてくれる
人もいなかったので、
緊急時の連絡手段は電報ということに
なっていた。
そんな生活が2年近く続いた。
1度でいいから本物のごるふをやって
みたいものだと常日頃から思っていたし、
やれば絶対おもしろいはずだと勝手に
決めつけていた。
しかし、ごるふは基本的に金持ちが
やるものだと認識していたので、
自分のような貧乏人には縁のない遊び
なのだと思って、半ばあきらめていた。
2019.8.3
就職先は伏せさせて頂きました。
が、年齢はわかりましたね。
自分より下だとか上だとか思われた
方もいらっしゃると思います。
当時、スマホは当然ありません。
ガラケーさえ影も形もありません。
メールなんてもちろんありません。
ポケベルの普及前夜という感じでしょうか?
ですので、通信手段は、電報、手紙、葉書、
公衆電話、家電、部落放送、そして、
大きな声だけでした。
そんな頃、ゴルフも確かにそうでした。
ネット予約がなく、ゴルフをするためには
数少ないコースメンバーの方に予約を取って
もらい、同伴してもらうことが条件でした。
料金もいわば、ゴルフ場の言い値。
本当に、普通のサラリーマンには
高嶺の花でした。
だから、「パパ、今日ゴルフだって」
なんて家は本当に少なかったと思います。