先日、大河ドラマで大高城に家康の軍勢が兵糧を
運び込んだ話が出ていました。
その話は、家康の最初の活躍ですので、知っては
いましたが、その大高城の守将が鵜殿長照だった
ということをドラマで初めて知りました。
鵜殿長照の名は、多分、蒲郡の歴史好きの方には
有名だと思います。
蒲郡市の北中部に「上ノ郷城」という城跡があり、
そこは戦国時代、今川義元の一門衆だった鵜殿
長照の居城でした。
それは大人になってから知ったことですが、
一方で小学生時代、小学校の横にある坂道に
ついては、次のような話を聞いていました。
「坂の名はうどお坂。」
(本来は鵜殿坂。400何十年の間に多分、訛った。)
「昔、殿様がここで転んで死んだ。」
(実際には、上ノ郷城から逃げる途中で、鵜殿長照が
転んで討ち取られた。)
「だから、ここで転ぶと祟りで怪我が一生治らない。」
(転ぶと死ぬ:私のおばあちゃん談)
(夜は落武者の幽霊が出る:友達間の噂)
子供心には恐ろしい場所で、暗くなってから小学校へ
忘れ物を取りに行くときは本当に怖かったです。
一方で、鵜殿長照を討ち取ったのが「伴与七郎」
という武士。
彼の子孫かどうかは知りませんが、「伴」という
名字の家が今も多数あります。
鵜殿坂のすぐ南のオレンジ色で囲った地域ですね。
また、鵜殿長照の子供2人は捕まりましたが、
人質交換で彼らは駿府に。
その人質交換で戻ったのが家康の妻子というの
ですから、それは「築山殿」と「信康」でしょう。
子供の頃に聞いた言い伝えがほぼ事実であり、
その言い伝えが地域で400何十年も伝わっていき、
いろんな史実ともつながっています。
更に、大高城へ鵜殿長照を救援に行った家康が、
結局、「鵜殿坂」で鵜殿長照の命を奪うことになる
という点もなんか感慨深いものがあります。
2023.1.10
もう少し言うと、「伴」一族が多く住む地域に
隣接した南側が私の一族の居住地域です。
そして、伴氏の1人が蒲郡でのコロナ感染死第1号で、
その彼のお爺ちゃんが私の名付け親。
また、保育園の時に、一番きれいだったのが伴先生。
(木俣先生は鬼瓦みたいで、私の担任の中川先生は
普通。)
世の中はいろんな所でいろんなつながりがあります。
いずれにせよ、鵜殿長照の名は私にとって非常に
感慨深い名前です。