一番面白いのは、①のタイプの人たちかもしれません。
彼らの行動原理を成しているのは、「自分が得する
ように。他人を押しのけてでも、場合によっては
他人に大迷惑をかけてでも」です。
従って、例えばロシアのウクライナ侵攻において、
ウクライナ人の中で①のタイプがいる場合を考えて
みますと、
彼らは、「命を失うかもしれない、大損をするかも
しれない」ということで、まず自分ありきで他の➁➂の
ウクライナ人と共に共闘することになります。
「自分の敵の敵は味方」というのは、敵を倒すまでは
間違いなく真理ですし。
そして、自分が全財産を失ってしまうことは、
本人にとっては、耐えられないことでしょうから、
➁➂の人々よりもむしろ熱烈に戦う可能性があります。
それは他人から見れば尊敬・敬愛すべき愛国者であり、
悪人などではまったくありません。
本人はただただ自分のために戦っているのですが。
かくして、本人の意図とは別に、歴史上で偉人、
大英雄と呼ばれる方々の中には、かなりこのタイプが
いらっしゃると思います。
そして、ええ彼ら、無茶しがちなんです。
武士の戦いには、
「名乗り合ってから戦う」、「夜襲はしない」、
「非戦闘員は襲わない」なんて、暗黙のルールが
あったそうですが、彼らはそんなものを守りません。
むしろ、英雄が勝つのはこのパターンが多いです。
義経なんてその典型的なタイプで、日本人の人気は
未だに高いのですが、頼朝に誅殺されるのは、彼が
そういう①のタイプの人物だったからかもしれません。
肖像画がかなりリアルに描写したものだとしたら、
頭は切れそうであるものの、こずるそうな視線は
どうしても感じてしまいます。
2022.3.7
親鸞の教えに
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
というものがあります。
これは確かにそうかもしれないと思います。
①のタイプの方の臨終間際、損をしないように
得をするようにで生きてきた結果、物はあるけれど、
自分に寄せてくれる心がないことに気づくと思います。
その時にはどうにもならない懺悔の心が生まれる
可能性もあります。
臨終のときではなくても、収監されて死刑宣告を
受けた時。
その時にこれまでの行動原理が崩壊し、
変わって生まれるのは本当に聖人というべき
精神なのかもしれません。