1995年、私が初めて中心となって開発した
パチンコ台です。
運よく用意した部材分を完売し、かなり
長期間に渡ってホールに設置して頂けました。
ですので、覚えていらっしゃる往年の
ファンの方もいらっしゃるかもしれません。
1993年の入社でしたので、専門家ではない割に、
かなり早く遊技機の開発を担当していましたね、
今、考えると。
30代半ばの頃ですが、そうなった理由は
ちゃんとあります。
1つ目の理由は、センター役物の在庫に会社が
悩んでいたんですね。
先に「ニューシーザー2世」というセブン機を
開発し、そのセンター役物は「ドンキホーテ2」で
使用されていたものでした。
ところが、「ニューシーザー2世」は全然売れず、
センター役物だけが大量に余ってしまい、
会社は「さあ、どうしましょう?」という事態に。
何万個と残っていますので、仮に1つ5千円
としても、合計では軽く億を超えてしまいます。
「シーザー」というセブン機がかつて売れたため、
その後継機である「ニューシーザー2世」も売れると
踏んだんですが、これが大失敗。
何故売れなかったのか?
理由は簡単です。
「シーザー」は連チャンを仕組んだ機械であり、
「ニューシーザー2世」は連チャンの仕組みが
試験でバレてしまい、連チャンなしになったためです。
それと、市場が既にセブン機はカラー液晶という
時代になりつつあり、単色ドットの遊技機では
歯が立たない時代にということもありました。
そして、一度は市場に出てしまった役物の
再利用はインパクトが弱まるため、既存の担当者が
その再利用を嫌がったということが出てきました。
でも、それを掃かなければ会社は緊急事態。
で、その役物を使うことを条件に、私と初めて
ゲージを担当する社員が起用され、少しでも
在庫が掃けたらいいなあということだったんでしょう。
そのゲージ担当者は元々、営業担当だった
のですが、退社希望を引き止められて、
ゲージ担当に転向したばかり。
言ってみれば、ドンキホーテ2は廃物利用で、
かつ、新人試験でした。
が、見事というか二次販売も行われ、在庫を
すっかりきれいに片づけた上、長期に渡って
稼働を付ける結果となりました。
稼働を付けたことで、会社のブランド力UPにも
つながりました。
私のいた会社は、独創的な試みがあまりにも他社と
かけ離れ、「変態メーカー」とまで呼ばれるように
なるのですが、その先駆けでもありました。
そして、そう呼ばれるようになり出した頃、
その主体はほとんど全て私の頭の中から
生み出されたものでした。
私自身は決して変態ではないのですが。
ただ、そのゲージ担当の伊藤君、市場での
成功を見ずに会社を去っていたんですよね。
唯一の心残りでした。
2021.5.24
私はパチンコ業界でスタンダードになったものを
数多く残しています。
以前、記載しました「再抽選」だとか「連続予告」
もそうです。
その中で一番最初にそうなったのが、
「リーチにリーチ名称を付ける」
ということでした。
「なんじゃ、そりゃ?」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
当時は「リーチ」「ロングリーチ」ぐらいしか
名称はなく、パンフレット上、インパクトを
付けにくいということがありました。
で、パンフレットの作成も行っていた私が
「デジパチ甲子園」というパチンコ台で
「青春のかがやきリーチ」と付けたのが最初です。
以後、全てのパンフ、映像資料で○○リーチ
という言い方がされるようになりました。
そして、いまだにリーチ名称がついたのは、
「デジパチ甲子園」の「青春のかがやきリーチ」
が最初とネットで書いてくれる方がいらっしゃいます。
でも、「デジパチ甲子園」、売れませんでしたねえ。
死ぬほど売れなかったです。
最後に、冒頭の2枚のセル画の違い。
左側は、これまでセル画を担当したことの
なかった、させてもらえていなかったデザイナーが
作成したものです。
そう、セルデザインの作成も新人試験だった
んですね。
そして、ヒットを受けて右側を当時のエース
デザイナーが作成しました。
なんか、右側はドラクエをパクリました感が
一杯ですし、左側の方が良かったと思っては
いました。
そのエースデザイナー、最初は売れないと思って
開発にも反対し、新人に描かせてたんですが。
売れてしまったためしゃしゃり出たんだろうとも。
成果の出た商品については自分も噛んだことに
しときたい人って、後からいくらでも出て来ます。