「60才前に亡くなられる方が多く、60代で
長老、70代ならば本当に最長老だったそう」
これについては、栄養状態が一番の問題だった
んじゃないかというのが父親の意見です。
当時、北部小学校区というのは基本的にお百姓
さんが多く、畑で採れたものを食べていたそう
です。
今のように例えばミカンを育てて売り、売った
お金で肉・野菜・魚を買ってというのではなく、
大根が取れる時期になると何日も大根ばかり、
かぼちゃが取れればかぼちゃばかりがおかずで、
あとは漬物とごはんだったそう。
蒲郡には肉屋が一軒しかなく、年に一回か
二回買うことはあってもすじ肉をわずかにと。
当然、栄養が偏り、動物性たんぱく質も不足
しがちだったんでしょう。
そして、それは私の子供の頃でさえそうだった
んですが、病気になったからと言ってすぐに
病院へという時代でもなかったはずです。
北部学区内に病院は一軒もなく、2Kmほど
離れた蒲郡駅前近くにまで行かなければ医者に
かかれませんでした。
2Kmといえど、当然、誰も自動車など持って
いない時代、病人を病院へと考えてもそう
簡単にはいけなかったでしょう。
2024.6.17
当時は、病人をリヤカーに乗せて運んだと聞いた
ことがあります。
更に言えば、大人は老人も含めて、盲縞(めくら
じま:たて糸もよこ糸も紺染めの木綿糸で織った
平織物)ばかりだったそうです。
私の子供の頃(1960年代初期)でさえ、お爺さんの
世代はみなこれを着ていたという記憶があります。
そう、近所の雑貨屋の店主、頬も瘦せこけ、
子供視点には幽霊みたいな感じだったのですが、
いつもこの着物を着ていました。
何才なのかも見当が付かなかったのですが、父に
言わせると「70才になるかならないか」。
当時の私の身の回りのお爺さんはこんな人たち
ばかりだったような気がします。
皆、頬が痩せこけ、ふっくらした老人なんて
まず見なかったです。
おばあさんはおばあさんで夏になると、乳母車
にもたれつつ、上半身裸、或いはすけすけの襦袢
みたいなものを羽織って道をよく歩いていました。
子供たちこそ着物は来ていませんでしたが、
当時の写真を見ると、スラム街の子供たちという
感じ。
みんな真っ黒でなんかテカテカしていました。
ランニングとか運動を外でしている人も見た
ことがなかったような気がします。