これらは全て海外の画像ですが、西欧に限らず、
多くの国々では、公園で大人も子供もいろんな
ことをして楽しんでいるという印象を受けます。
それは、テレビで見る海外の様子を紹介した
番組でもそうで、バスケットボール、サッカー、
バレーボールなんてそこら中の公園で見ます。
専用公園ではなく、一般の公園で。
一方で、日本ほど公園が殺風景な国はないん
じゃないかという気もします。
だって、そのようなことをすれば、日本では
ほぼ確実に、
「マナーを守りましょう」
「他人の痛みを考えられる人間になりましょう」
という声が出て、挙句の果てには「私設警察」
が登場して来てすぐに警察を呼ぼうとしますし。
結果、日本の公園で咎められないのは、幼児を
連れた親子か、ベンチで日向ぼっこをする老人
のみという気がします。
これって、公園が作られた本来の目的を、マナー
とかを声高に叫ぶ一部の人たちが阻害している
ってことじゃないかなあと思います。
2024.7.1
その一部の人たちって、公益性だとかマナーと
いう言葉を使って来ますが、実の所、自分の
欲求を叶えるために使っているだけです。
自分の欲求を声高に叫んでも訴求力はありま
せんが、いかにもって言葉を使うと訴求力が
出て来ます。
「俺がうるせえって思ってんだから、お前ら、
公園で遊ぶな!」ってだけでは訴求力が
乏しいです。
そういう時、マナーだとか公益性という言葉を
使うと自分の黒い欲求が隠される上に、訴求力
を持って来ます。
でも、マナーマナーという人ほど実はマナーが
ない、公益性公益性という人ほど実は公益性を
持っていないと私は思っています。
ゴルフで言えば、ボールマークが残っている
のを指摘し、「マナーのない人が多い」と言う
人はよくいます。
でも、実際にボールマークを直している人は
そんなことを言いませんし、自分が毎ホール
いくつかを直せば済む話だと思っています。
「マナーのない人が多い」とわざわざ指摘する
人は、とても毎ホールなんてやってないです。
ボールマークがあるのはイヤだけれど、自分で
直すのもイヤ。だからそういう指摘をして他人に
直させようとしているだけです。
或いは、やらないんだけれど、口でそういう
ことをいう事によって人格者っぽく見せたい
だけです。
ちょっと例は違いますが、一部の会社の経営者、
自分の出世を考えている社員は頻繁に「会社の
ために」という言葉を使います。
でも、会社というか社員を含めた会社のために
と考えている方は、多分、「会社のために」では
なく、「社員のために」という言葉を優先します。
「会社のため」連呼の方の本心は「自分のために」
です。
幕末もそうですね。
幕府方、維新方、共に多分「日本のために」を
旗印にしていたと思いますが、恐らくはお互いに
「自分たちのために」争っていただけです。
戦争もそうですね。(幕末も戦争でしたが)
上の指揮官になればなるほど「お国のために」
と声高に叫ぶものの、彼らにはまず自分の昇進
ありきで指揮を執った人が多いでしょう。
ですので、そのような指揮官は部下がいくら
死のうが何とも思いません。
死んでいったのは、家族のために、国民のため
にと願っていた方々と、彼らの側に立った
数少ない指揮官たちでしょう。
場合によっては、自分が犠牲になることで、
部下たちが助かるならと指揮官自らがという
方々もいたでしょう。
そうではない指揮官たちはまず自分が逃げる
ことを考えます。
「兵の代わりはいくらでもいるが、指揮官の
代わりはいない」とか、自分に都合の良い
言い訳を旗印に。