苦学生は今も昔も言ってみれば
溢れていると思いますが、「砂場の大将」
と呼ばれた彼もまたその1人でした。
超難関の私学に合格したはいいものの、
仕送り額は決して恵まれてはおらず、
基本的にはある程度の自活を強いられていました。
でも、ここまでは、よくある話です。
が、彼、パチンコが大好きだったんですね。
ここまでも、よくある話と言えばよくある
話です。
更に、彼、好きなくせにちっとも勝てない。
これもまだまだよくある話です。
そういう人がいないと、パチンコ屋さんは
成り立ちません。
もっと言うと、負け出すと持ち金が
なくなるまでやってしまう。
競輪場・競馬場・競艇場で帰りの電車賃まで
賭けてしまう人と同じです。
でも、こういう方々が日本のギャンブル場、
そして、パチンコ店を支えて来ました。
結果、彼はバイト漬けなのに飯をろくに食えず、
ガリガリという生活を東京で送っていました。
そして、瀕死の状態で盆・暮れに蒲郡へ帰省すると、
冬眠前のクマか?というぐらい実家で脂肪を蓄え、
東京に戻っていくということの繰り返し。
意味は一般とはちょっと違うかもしれませんが、
まさに「苦」学生でした。
2021.1.1
瀕死の状態で蒲郡に帰って来たはいいものの、
残るなけなしのバイト代を狙っている奴も
毎回、蒲郡には待ち構えています。
麻雀に誘われ、負け、負け、また負け。
帰りの新幹線代以外、全て巻き上げられる
という繰り返しでもありました。
ただ、1度だけ、「今日は勝った」
という日が、本当に1度だけありました。
「これで最後の半荘。
+110あるから今日は勝ったなあ。」
と言われ、「ホント、初めてだわ。」と、
満面の笑顔で、ほぼ安牌であるはずの3枚目の
「西」を。
「ロン。
四暗刻単騎、親のダブル役満。9万6千。」
「トリプル箱で、役満賞がダブルで、ウマが×3。
合計マイナス160、ってことは2千円負けな。」
1980年1月1日、蒲郡にある私の実家での
出来事でした。
「やっぱり、こいつから出るんだよなあ。」
と、上がった私もそう思いました。
福の神なのか貧乏神なのか、
なんかそういうものはあるんですよね。
そういう局面で私は親の時にそういう
聴牌をし、彼がしっかりラス杯の「西」を
掴み、自信満々で切ってしまう。
さて、そんなこんなで、